はじめに
秋の澄んだ空気の中、河口湖から車を南へ走らせた。
富士の姿を背に山を越えると、やがて湯けむりの町・修善寺に着く。
いくつかの観光地を巡ったため、宿の灯りが見えたのは日が沈んだあとだった。
旅の終わりに辿り着いたのは、木造建築の美しい老舗旅館――新井旅館。
新井旅館-木のぬくもりと文化の記憶
翌朝まだ薄暗い中、天平大浴堂で身体を温めた。
太く大きな柱と岩、高い天井が印象的だ。
新井旅館の棟のほとんどがそうであるように、この浴堂も国の登録有形文化財であるという。
湯気の向こうに見える木の梁には、長い年月を重ねた建物だけが持つ静けさが漂っていた。
新井旅館は、明治の時代から多くの文化人に愛されてきた宿でもある。
与謝野晶子や川端康成をはじめ、文学や芸術に生きる人々がこの地を訪れ、静かな時を過ごしたという。
近くの修善寺では、夏目漱石が病の療養のために滞在し、心を整えたとも伝えられている。
建物に流れる時間の重みや、湯けむりの中に息づく静けさは、彼らが筆を置いた後にも残る何かを感じさせた。
朝の光と桂橋
湯上がりに部屋へ戻ると、障子越しにやわらかな光が射し込んでいた。
窓の外には、静かな川面の向こうに赤い桂橋が見える。
昨日は暗くて気づかなかったが、修善寺の象徴がすぐそこにあった。
川のせせらぎとともに、朝がゆっくりと始まる。

庭園に流れる時間
新井旅館は入口からは想像できないほど奥深く、
庭園と池を囲むように木造の客室が連なっている。
池では鯉が泳ぎ、木橋の上には朝露が残る。
池を渡る風が、古い木の廊下をわずかに鳴らした。
ここでは時間の流れが少しだけ緩やかに感じられる。

修善寺の街歩き―竹林の小径と観光の賑わい
宿を出て、朝の空気を吸い込みながら竹林の小径へ向かう。
風が竹の葉を揺らし、葉擦れの音が心地よい。
しばらくすると、海外からの団体ツアー客がやって来て、
竹の葉の音は異国の言葉と笑い声に包まれていった。

かつての文人が静かに筆をとった場所も、今は多くの人が訪れる観光地となった。
それでも、誰もがこの場所で何かを感じ、何かを残していく。
それが、旅という時間の積み重ねなのかもしれない。
旅が教えてくれたこと
修善寺の温泉街は決して広くはない。
主要な観光地を巡るだけなら半日もあれば済んでしまうだろう。
私も一泊の滞在で帰路についたが、長くこの地に身を置いた文化人たちの気持ちが少しだけ分かった気がする。
旅館に滞在し、街を歩き、人の声と自然の音に耳を澄ます。
その繰り返しの中で、時代を越えて変わらない「静けさ」があることに気づく。
文化と自然、賑わいと静寂。
その間に流れるゆるやかな時間こそ、修善寺の魅力なのだろう。
注釈
・訪問日:2025年10月下旬
・場所:静岡県伊豆市修善寺(新井旅館・竹林の小径)
・撮影機材:Google Pixel 9 Pro
・宿泊施設情報:新井旅館